学生の頃に古典の授業でとある日記文学を習った。
狭い家で暮らす日々を綴った、ごく有名なやつだ。
家の四辺がそれぞれ一丈の長さしかなく、組み立ててすぐ作れるという庵に住んでいる話。
私が今でも愛用している国語総覧の教科書には、ご丁寧にその家の間取り図まで載っていた。
狭いながらも文机と書院造の棚があったような気がする。
山の中に建てるので、近くの木になるあけびや柿などを食して日々食いつないでいく。
すぐに組み立てられる家なので、何かあってもまた代用がきく、なんてことも書いてあったように思う。
以来、この家は私の理想である。
どこが理想かというと、とにかく家ごとどこへでも行けるという点。
台所や風呂・トイレがないのが難点だが、何よりすぐに組み立てられるというところが良い。
きっと崩れてきても怪我で済むだろうし、材料さえ揃えばどこへでも家ごと行ける。
現実問題、山や土地の権利やらで今勝手に家を建てると不法侵入になりそうだが、理屈としては非常に合理的だ。
今までの人生で何度か引越しをしてきて、枷になったのが家に対する思い入れだ。
ひいては、ものに対する思い入れ。
それは執着ともいえる。
そういう感情が強ければ強いほど、その場所から動くことができない。
動けたとしても、とてもとても切ない思いをすることになるのだ。
私が人一倍、執着心が強いのかも知れないが、そういう大切な思い出のあるもののために、色々と縛られることがある。
家なんて大きなものには、家族や生活の思いでというのがあちこちに息づいているから尚のこと。
だからこそ、この替えのきくポータブルハウスは大した思い入れもなく次に進むことが出来るのだ。
一歩踏み出すとき、その足を引っ張らない。
絶対に不可能なことはわかっているが、こういう便利なものがあったらいいのに、といつも思っている。